改めて信仰や広く「信じること」について考えている。
実家は仏教、宗派で言うとたぶん曹洞宗で、私は熱心な仏教徒ではない*1。私が実家にいた頃の祖母や母が仏壇の前でお経を諳んじるのはほぼ毎日だった。でも「家族は熱心な仏教徒」かというと感覚的には「?」な感じで、特定のお寺に行くことはなく、だから「生活を圧迫するようなお布施」もなかったと言える。祖父が亡くなった後の法要で、ここがうちの菩提寺か、と知ったぐらいである。
そんな私は今、宗教は?と考えると、強いて挙げれば仏教、の状態で、特に拠り所としているものはない。……ないというのは言い過ぎかもしれない。実家に帰れば仏壇と神棚には手を合わせるし、神道の八百万の神という考え方も好きである*2。教会などの歴史的な建物は好きだけど、キリスト教については一般的な知識レベル(よりもちょっと下ぐらい)しかない。そんな宗教観。
私は新興宗教や自己啓発セミナー(の団体や会社)に、そもそもよいイメージを持っていない。小学3年生ぐらいの頃に旧統一協会の合同結婚式がテレビで取り沙汰されて、それを見て子どもの理解力ですら感じた異様さは今でも思い出せるし、その後も地下鉄サリン事件を始めとして小中高の頃にそういった事件がある程度のスパンでいろいろと発生していたこともあって、警戒心や猜疑心が醸成されたのだと思う。
新興宗教や自己啓発セミナーはその全部が悪いものではない可能性は捨てず、もちろん信仰の自由などを理解しつつも、なぜそれを信じたのかについては理解ができないことがある。オンラインサロン(ファンクラブ的なやつではなく情報商材を扱うやつ)や仮想通貨、お金に関するうまい話なんかもそう*3。
私の場合、物事を吟味するときは否定から入ることが癖になっている。否定が難しい部分があれば、その部分はもしかすると信じていい部分かもしれないからだ。ただ、こうやって言葉にすることはできても、実際に「だって絶対怪しいじゃん」と感じて、そこからどこがどう怪しいかを判断したり、誰かに論理的に説明するのは難しい。対象の矛盾点やお金の流れていく先がどうなっているか、とか、きっとそういったところを考えたりするんだと思うけど。
これって肯定から入る場合にはどうなるんだろう? 「信じる」が先に来ると、あとから否定的な部分に気がついた場合、程度により目を瞑ってしまったりしないだろうか。否定から入る考え方のほうが優秀だ、とまでは言わないけど、信じることに無意識でいると盲目的になってしまうのかもしれないなあと思えてきた。どうなんでしょ?
2022W29
2022W29 (2022-07-18 / 2022-07-24)
今週のうたかた
18日、月曜日。
19日、火曜日。
味は割と好きなんだけど、いかんせんちょっとお高い。
20日、水曜日。
21日、木曜日。
22日、金曜日。
23日、土曜日。
24日、日曜日。
この日は「グランドキッズデー」で、無料観覧日。館内のイベントもあって、「トーハク笑楽座」でお囃子の体験と寄席*4、コロタイプ印刷の体験、ファミリーコンサート。特別展は開催していなかったけど、それでも回りきることはできず、いつも不完全燃焼。
今週の覚え書き
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