はせる

は・せる、馳せる

大温室 (2024W07)

 2月の週休3日、ひとつ目。

2024W07 (2024-02-12 / 2024-02-18)

 『オードリーのオールナイトニッポン in 東京ドーム』を配信で観た件は、目次よりお進みください。……というかですね、この週はそのことが大きな出来事ではあるんだけど、それをこの部分に持ってくると「観なかった私」がどう思うかね……という回り回ったやつである。いや、観たけどあんまり大したこと書けないね、というだけでもある。
 さて、何の話をしよう。ということで、久しぶりに音楽について。

 高校生の頃にbeatmania IIDXを始めたことから始まり、『DANCEMANIA』などのコンピレーションシリーズだったり、それまでアニソンが主だったところにどんどん傾倒していって、私の思春期に結びついている音楽はハウスとかテクノとかユーロビートとか、そういったダンスミュージックになった。特に20代の頃はすごく能動的に音楽を掘り下げていたはずなんだけど、でも今は邦楽・洋楽全般的に新しい曲にそんなにアンテナを張っていなくて*1、過去によく聴いていた曲を繰り返し聞くことの方が多い。これは自分で自分のことを「年取ったな」と思う部分のひとつ。
 音楽は自分の時代や世代、自分史と結びついていて、「よく聴いていた曲」を聴いて行くうちに、私の高校時代はユーロビートだったな、と行き当たった。もちろん大流行りした『NIGHT OF FIRE』も聴いていたけど、嗜好としては「哀愁ユーロ」と分類されるようなタイプが好きだったことを思い返している。特に『SUPER EUROBEAT Vol.101』の1曲目だった下の曲はすごく好き。

 「DAVE & DOMINO」は夫婦で、Dave RodgersはV6がカバーした『TAKE ME HIGHER』『MUSIC FOR THE PEOPLE』などの原曲アーティスト。『頭文字D』のコンピレーションにも多く採用されている。懐かしさで癒されている。

*1:ラジオで耳にして気になった曲、ぐらいの感度。

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冬の気配が薄れていく前に (2024W06)

 タイトルは感傷的ですが、雪国マウントな話であり、記憶の書き出し。

2024W06 (2024-02-05 / 2024-02-11)

 私の出身は青森県の県南、八戸市から近い三戸郡の中の町で、日本海側に比べたら元々積雪量は少なく、さらに昨今は温暖化の所為か、雪が降っても積もることは少ない(らしい。実家からの伝聞)。それでも子どもの頃の記憶では、かまくらを作れるほどではないにせよ、雪だるまは余裕で作れるぐらいにはちゃんと積もっていて、それを思うと少し寂しくある(というか、積雪する季節に帰省することが少ないのだけれども)。
 つららもよくできていた。通学路沿いの軒下にできたつららをポキッと折って、帰りに水分補給して帰ったりしていたんだけど、今思うと少しゾッとする。

 つららを見ることはないけど、東京も雪が降る。普段の寒いだけの見慣れた景色が、雪で白く埋め尽くされていくのは不思議な気分で、写真を撮っている自分はたぶん少し高揚している。そんなとき、自分がどこで生まれたかを無意識に思い出しているのかもしれない。

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梅は咲いたが (2024W05)

 そうだ、写真を撮っている自分のことも客観視することがあるんだよな……

2024W05 (2024-01-29 / 2024-02-04)

 先週の週報を書いてから「自分を客観視して、自分が嫌になる」という点について考えていた。
 文學界のオードリー若林さんと國分功一郎さんの対談の冒頭で話題に挙げられていたので最近読んだ、ワキ方を演じる能楽師・安田登さんの著書『あわいの力*1に書かれていた内容を思い出している。能を起点に、「心」が生まれたのは「文字」が生まれた後として、甲骨文字や古代メソポタミア文明楔形文字(シュメール語・アッカド語)、ギルガメッシュ叙事詩など、さまざまな事柄を行き来するけど、しかし一貫して「心」と「身体」について書かれていた。
 その中で、目・口の「みる」器官、鼻・耳の「きく」器官について、アメリカの心理学者であるロロ・メイの研究を引き合いにだしながら、下記のように触れていた。

 ロロ・メイは五感を「主体的(subjective)」と「客体的(objectivbe)」の二つに分けます。そのうち「みる」器官は「主体的(subjective)」であり、「きく」器官は「客体的(objective)」であるというのです。
 そして、主体的な行為である「みる」をされる人、すなわち「みられる」人は、その瞬間に「客体化」されてしまうのです。ロロ・メイは人間は主体的な存在であるから、客体化されたときに、そこに「恥」が生まれるともいいます。(太字は傍点の箇所)
安田登『あわいの力 「心の時代」の次を生きる』p47

 自分で自分を俯瞰してみることは、つまり、自分で自分を客体化して自らモヤモヤを生み出している、ということだと考えることができる。「あっち側」の人たちは「ドローン視点」に対する「CCDカメラ視点」があるというよりかは客観視するもうひとつの視点がそもそもないのであって、私もその視点がなければ今よりも生きやすくなるというのは当然わかる。わかっていても、その視点が取り除けないのが悩みどころなのである。
 安田登さんは能の演目やストリップなどを例に挙げ、「見られる」という客体化される状況において、あえて主体的に「見せる」ことで、相手を「見せられる」という客体的な存在にしてしまう、これが「芸能におけるメタファーの転換、逆転現象」であると説いている。

 これを俯瞰視点に当ててみることができないだろうか、と考えていた。
 実際の状況に置かれている「自分」と、ドローン視点で見ている「自分′」のふたつの自分がある。この場合、「自分」が、俯瞰する視点を持つ「自分′」に見られることによって「客体化される」という構図になるのかな。「見せる」も自分、「見せられる」も自分という「自作自演」……というか「自演自視」、そして「自分」が目を閉じたとしても虚像である「自分′」は目を閉じることはない。この状況での「主体的に見せる」とはなんなのか。こんがらがってきたので、ここで一時停止。

 「自分」も「自分′」も、どちらも同じ自分であるわけで、サードパーソン・シューティングみたいな構図じゃん、という認識を得た。自分を「見る」のではなく、自分を「操作し」ている、という転換に打開案が見出せないか。

 あと、先週分の週報から「イベントに行かない選択」についても懇々と考えていて、その矢先、愛するU-NEXTでも「オードリーのオールナイトニッポン in 東京ドーム」が生配信されることを知る。思っていたよりも手軽に配信を見られることに、ちょっと動揺している。後悔が大きそうなのは見ない方であることは明らかだし、これは「見る」を選択した方がよい、という方に傾いている。
 もうひとつ。今年の課題図書としたブルデューの『ディスタンクシオン』、原著から読もうと思っていたんだけど、丸善で立ち読みしてみても文があまり入って来ず*2、値段も値段なので少し怯んだ。購入しようとしていた普及版は図書館にもあるので、まずは原著を訳された石井洋二郎さんが自ら引用しながら解説する『ブルデュー『ディスタンクシオン』講義』から入ろうと順序を修正した。
 以上。

*1:『あわいの力』、図書館で借りて読んだけど、この本は買って手元に置いておきたい。

*2:難解とは聞いていたんだけど、立ち読み当日のコンディションと言い訳できない感じがあり、しかも上下巻あるので年内で読み切るイメージが湧かなかった。

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揺るぎある生活 (2024W04)

 とても難しい自分の取り扱い。

2024W04 (2024-01-22 / 2024-01-28)

 オードリーANNの東京ドームイベントは、LIGHTHOUSEで想いを聞いて「これは、行けたらいいな、同じ場所で過ごしたいな」と思って争奪戦には参戦したものの、そんなに簡単にチケットを確保できるはずもなく、だったらライブビューイングも配信もいいかな、という気持ちになって、いま過ごしている。
 書いていて自分でも思うけど、チケット取れなくて拗ねているのと変わらない。でもまあ、いろいろとあるのだ。

 こういったファン向けのイベント含め、ライブも舞台も握手会も、これまでに行かない選択をすることがほとんどだった。それでもゼロではないので、これまでに行ったことがあるライブやイベントを思い出せる限り書き出してみる。
 テクノポップアーティストのレコ発ライブ(握手会付き)、友人の知り合いのバンド(下北沢のライブハウス)、ロックバンドのツアーファイナル(幕張メッセ)、フジロックフェス '07、朝霧JAM '07、高校の同級生のバンド(渋谷のライブハウス)、妻がファンのアーティストのライブ、勘違い系CDJに数回、BMS作者を集めたクラブイベント、友人が参加しているクラブイベントでゲストDJとして参加……
 思っていたよりはあるんだけど、これが東京に住んで20年弱であることを考えると少ないのではないか。地の利があるのに勿体ないとも思うんだけど、「自分はそういう人」ということで済ませていた。この思考にも向き合う必要がある。

 1つ目、自分を客観視する視点が強くなることがあり、自分が嫌になる。
 これと似たようなことを、この週の『こっち側の集い』で若林さんが「ドローン視点」と例えていた*1。つまり自分とその周りの状況を俯瞰して見ることによって、他者から自分を見た感情までが込み上げたり、自分がうまくその場の状況に対応できていないことを実感したり、その状態によって周りに気を遣わせてしまったりしらけさせたりしていやしないかと慮ったりすることがあって、それがつらいのだ。それが思い過ごしであったとしても。

 2つ目、同じものを好きだからといって、楽しみ方、さらにはその人の人柄は十人十色であること。
 同じものを好きな人、に出会うことは好ましいことだとは思うけど、その人と楽しく語り合えるか、はまた違う問題。明らかにモラルとしてよろしくないファンの行動を見てストレスが爆発しそうになったことがあって、やっぱりそういう人とは一緒になりたくない。もちろんそういうのは一部のファンなんだろうけど、いわゆる「ファンの所為で嫌いになる」ということはあるだろうな、と感じる。

 3つ目、行って満足したとしても、揺り戻しがあるかもしれない、と考える。
 イベントに行って、そのイベントが最高によかったとしても、その浮き上がった気持ちは、ふとした切っ掛けで勢いよく沈んでしまうかもしれない。……さすがにこれは考えすぎであることはわかっている。

 以上。さて、いろいろなことからなんとなく積を取っていくと、日常をできる限り凪の状態で過ごそうとしているのが見えてきて、つまり、簡単にまとめて言ってしまうと、精神安定のためにこういったイベントに参加することを遠ざけている、というように思えてくる。「自分はそういう人」というのは、まあそういうところなんだろう。
 でも、これからもそれでいいだろうか、と考えると、なんかいろいろと損をしていくような気もしてくる。精神的な状態やタイミングを見極めて、揺らぎの中に飛び込んで行くことができたら、なにか見つけることができるかもしれない。そう、「かもしれない」のだ。

*1:あっち側はこめかみのCCD視点しかないと言っていて、それには笑った。

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Notionあれこれ (2024W03)

 年始のあたりからNotionを運用している。

2024W03 (2024-01-15 / 2024-01-21)

 メモやスクラップはワンテーブルで運用しているけど、それらをまとめる「Daily」「Weekly」は別なテーブルとしている。これはページのプロパティが別な体系になることからである。ページに対して設定したフィルターをビューとして使うことでノートブックを再現できたり、使い勝手は悪くない。けど、ふとしたときにまだEvernoteの横串で付与できるタグが恋しくなる。

 Evernoteにこれまで溜め込んだデータはぼちぼちインポートして移行しているけど、ページがダブったりして手間取る、というか戸惑っている。なんで……? ページ間で使える関数があれば、2つ目だけをフィルターしてそれを全選択して消せしたりできそうだけどなぁ、と考えているが、そういう仕様ではないみたいなのでどうしたもんかというところ。
 Evernoteからインポートしたページは、参照率が高いページをいくつか統合して様子を見ている。元々Evernoteで付けていたタグは引き継がれているけど、Notion内での移動先にそのタグが存在しないと消えてしまうので少し手間が必要だった。まあ、最初はこんなもんだろう。
 あとは「よく参照するタグ」を選別して「お気に入り」に並べたいんだけど、これもビューでやるしかないのかね。

 Flickrは今年もしれっと更新してしまった。Flickrこそ高い料金をデータ保存容量にだけに払っているような状況になっていて、他を検討すべきサービスになっている。Evernoteから移行はできそうなのだから、この勢いが続くといい。

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