年末年始の収束。
毎日の日記を書くつもりはあったんだけど、年末年始に考えていたことをまとめて吐き出すのが先かなと思い、この記事をまとめることに注力しておりました。年が明けて15日も経ってしまったけど、これでようやく始められるかなぁ、という気分でいます。
2023-2024
今年の課題図書を決めた
毎年1冊は「ちょっと難しいんでないの?」という本に人知れずチャレンジしていて、ここ2年ぐらいはル・ボンの『群衆心理』に始まり「群衆」をテーマにして読んでいた。さて、それでは。
最近長く疎遠だった友人ら今の様子を知る機会が最近あって、「今年の希望」の見直し・リライトをする際に、小中学校の同級生を主にした「旧交」について考える時間が多かった。
新年の飲み会を企画する様子を眺めたり、直近の飲み会と思われる写真を見たり、そういったやりとりを眺めているうちに、飲み会を割とプライオリティの高いエンタメのひとつとしているように見て取れたことが、否定するつもりはないんだけど、私はなんかちょっと相容れないな、と感じた。私は昨年から、会社の飲み会にもなにかと理由を付けて参加しないようにしていて(年末に社内でやった納会は別として)、それについて込み入った理由を述べるなら「そういう時間はもっと好きな人と過ごしたい」ということで、単純な理由なら「酔っぱらいが嫌い(酒の席の無礼講や酔った勢いを振りかざしているのを見るのが嫌)」ということになる。これは自戒の念も込めて。そういうわけで、積極的にもう一度交友を持とうという気持ちは湧かなかった。
このことについて考えが深く潜っていくうちに、ブルデューの『ディスタンクシオン』のことを思い浮かべていた。この感覚って社会学的な面から考えるとどう捉えられるんだろうか。『ディスタンクシオン』では「社会階級」で区別されているけど、なにかを切っ掛けにいわゆる「クラスタ」がどこかでスライドしてしまったのかもしれない。わかりやすいところでは「私が地方中小都市を離れてもう長いこと」とか*1*2。
ということで、今年の課題図書は、ブルデュー『ディスタンクシオン』とその関連です。『100分de名著』での岸政彦さんによる解説は既に視聴・読了済みだけど、併せてもう一度触れたい。
示唆し導く人たち
昨年を振り返ってみて、Netflix『LIGHTHOUSE』はすごく重要なコンテンツだった。その中で若林正恭さんと星野源さんが話していたことを、私なりに咀嚼してそれを糧としたことが、私がこれまで蓄積したいろいろな考えや感じたことなどを絡め取って一塊にしようとしているような、さらにはこれからいろいろな情報や社会の変化に触れていくときにもそれを通して見ることになるような、私にとってはそんな大きななにかが変わる事だった気がしている。
『LIGHTHOUSE』のEp.1では二人の阿佐ヶ谷に纏わる思い出が語られている。阿佐ヶ谷といえば、私の「初めての東京」だったし、私の「初めての漫才」*3と言ってもいい*4爆笑問題が事務所を構える地でもある*5。爆笑問題は小学生の頃から私の興味を惹きつけていて、特に大人になって太田さんのお笑いだけでない部分*6にも惹かれていった。三人が「阿佐ヶ谷」で繋がっていて、私もそこに住んでいたこともまた不思議な感覚を湧き起こさせる(それはただの自惚れやこじつけでしかないんだが)。
そう、それで、年始に観た『太田光のテレビの向こうで』での佐野元春さんとの対談がとてもよかった。これ、太田さんが1対1で語り合うBSフジの番組なんだけど、「新番組」とか「今回は」とか書いてあるけどシリーズ化されてるの? だとしたら嬉しいことである。TVerで観られるうちに、グッときた部分をメモ帳に書き起こした。主に創作について話をしていて、太田さんが引き出す佐野さんの語りは、その声や語り口調も相まって聞き入ってしまう。特に以下の部分は、『LIGHTHOUSE』で語られていた「悩みを無化する」や「踊ろうぜ!」のあたりを想起する。
佐野 我々表現者は、世の中を見てどこを切り取って歌にするのか。コメディアンはどこを切り取ってお笑いにするのか。というところを格闘していると思うんですけれどもね。やはり現実を見れば見るほどそこにあるのは不条理、ですよね。いろんな切り口から試してみるんだけれど、最後にはどうにも理解できない魑魅魍魎、不条理としか言えない。で、これをどうにか、不条理のまま……不条理が自分の人生にかぶさってきて、僕が……僕の個性といったものが覆い隠されてしまうのはどうにも悔しい、癪だな、その不条理をどうにか凌駕できないか、追い抜けないか、そういうところで勝負するときに、やっぱりロックンロールビート、ポエトリーというのはすごくよい攻撃のツールになりますし、自分を防御するツールにもなりうる。だから僕は太田さんもね、同じことをあの本でやられたな、と思ってるんですね。不条理な世の中をまともに見るんじゃなくて、それをコメディ、お笑いに、笑いに変えて。そしてこの僕のユーモアを誰が受け取ってくれますか、といったときに、その受け取り先を子どもたちに設定した、と僕は見て、そこが痛快だった。
僕もロックンロールを作りながら、いつも子どもたちに届くようにと思ってる。どうしてもこの年齢になるといろいろな経験を積んできますから、表現にひとつの否定的な見解といったものが入り込みがちですし、厭世的な見方というものが入りがち。でも、それは大人の事情であって、曲にして格好いいだろうと僕は思わないんですね。そこは少し冷静になって、自分の作る音楽はどうにか子どもたちにもいい形で、おもしろい形で伝わっていってほしいと、こういう願いはいつもありますね。これ、どこから学んだかというと、手塚治虫さんのマンガです。
太田光のテレビの向こうで ― 太田光×佐野元春 ふたりが語る音楽とは、笑いとは
(海外での紛争や、国内でも今までのことが崩れていくような、希望を持ちにくい社会情勢、笑いにしにくい社会状況について)
太田 この長いスパンで見てきて、世界がこうなっているっていうのは、うーん……どう見てます?
佐野 そうだね……歴史というのは、昨日の繋がりで今日があるっていうふうに、これまでの人たちは理解してきたと思う。過去にこのことがあったので、その延長にこれが起こったんだと。それは、この魑魅魍魎な世界、世の中をどうしても理知で理解しよう、把握したい、という欲望が僕たちにはあるからだと思うんですよね。
でも一度、その欲望を捨て去って、今は過去の繋がりではなく、分断されたものがずっと続いてってるだけなんだ、というような発想に立てば、すごい変化・変容が起こっているけど、その変化・変容を「楽しもうぜ!」っていう余裕も出てくる、というように僕は思います。
太田さんがおっしゃるとおり、世の中不条理ということであれば、その不条理に対抗して、笑いという武器でぶつかって行くんだけども、不条理の方が存在がでかくて、笑いが負けちゃう。これどうにかしたいよね、というところのストラブルかなと僕は思うんですけど、それはね、曲作りも同じですよね。どうにか、この不条理性を無効化してやる、せいぜいロックンロールあるいはポエトリーでできるのはそのへんかなって僕は思って。それを変えられはしない、世の中を変えられはしないけど、クソッタレな状況を無効化してやるぜ!意味のないものにしてやるぜ!という気概はまだありますね。
太田光のテレビの向こうで ― 太田光×佐野元春 ふたりが語る音楽とは、笑いとは
他にも、太田さんが『シャボン玉ホリデー』や『今夜は最高!』のようなコント・歌・トークを交えた番組をやりたい、と佐野さんを誘っていたんだけど、それって星野源さんが『おげんさんといっしょ』で徐々に形にして行っていることだよなー。と思いながら話を聞いていた。TBSラジオ JUNKとニッポン放送 ANN、同時間帯でラジオを担当しているけど、一度太田さんと源さんの対談を見てみたい、と強く思った。この番組でなんとかならんかね。
まとめると
『ディスタンクシオン』を読んで得る知識を用いて自分の現在の立ち位置を捉えることが、「この世の中を理知で理解しよう」とすることのような気もする。ただ、知らないままでいるよりも、知った上でどうするか選択する方を選びたい。
さあ、次行こう!
*1:そういえば齢40を超えて、東京在住期間が出身地で過ごした年月を超えてしまった。
*2:今、Wikipediaで出身地の町を調べたら、合併後の「町の鳥」を2009年に「うぐいす」に制定していて、なんかそういう縁は切れないのだな、と思った。
*3:ドリフや『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』は見ていたけど、コントではなく漫才、小学校の友達の前で真似したりした漫才は爆笑問題だった。
*4:GAHAHAキングの10週勝ち抜くのを見たことを記憶している。
*5:阿佐ヶ谷に住んでからタイタンがあることを知った。
*6:いろいろある。他の芸人さんから聞く優しさだったり、コメディアンとしての哀愁だったり、「未来はいつも面白い」という言葉についての話だったり。でも、実は著作はまだ読んだことがないので、『笑って人類!』も今年の課題図書だな。