2024年10月24日、木曜日。晴れ。下弦の月。
九段理江『東京都同情塔』はちょっと前に読み終わったけど、まだ感想を書けていない。書きたいのに書けない(あるある言いたいではなく)。ので、今書き出してみる。
マサキ・セトが提唱する「ホモ・ミゼラビリス」の論については、頷ける、確からしい、と感じながら、それが「東京都同情塔」という建造物、施設として形になることについては、マックス・クラインと同じように「裏になにかあるだろう」と私自身も感じている。でも、そう感じていながらもスパッと「私はそれについて寛容になれません!」と言い切ろうとすると、どこかなにか躊躇いみたいな、戸惑いみたいな、グレーな状態になってしまう。このことには後半の方でマックス・クラインがタクトを非難して言う言葉が、そのまま自分に向けられているような感覚になる。
ゆるキャラの着ぐるみみたいに沈黙と中立的な微笑みを着込んで、本音と建て前、ウチとソトを使い分ける、器用で嘘吐きで綺麗な黄色いチューリップだ。
九段理江『東京都同情塔』 p105
考える人はいいな、と思う。結論が出せていなかったとしても、考えるという行為自体がいいと思う。そして、創作であろうとブログであろうとラジオであろうと、その考える過程、悩む過程を言葉で、表現してくれる人、見せてくれる人、いや、滲み出るでもいいな。そうやって感じ取れる人には、尊敬のような好意のようなものを感じている。そして今日も私は人の日記を読むのである。
『東京都同情塔』の感想を考えながら、群青の2023年12 月号を読んだ。目当てにしたのは斎藤幸平さんのインタビューだけど*1、『秋のエッセイフェス』がとてもよかった。感想は書けた。