そこに在る、在ったということ。それだけでもいいかな、って。
この日、この写真を撮った日、大叔父に当たる人のお見舞いに千葉の病院まで出かけた。
正直なところ、その人と俺との心温まるエピソードはないように思うし、交わした会話で憶えていることもあまりない。ただ、盆や正月に顔を合わせたときに粋ですごく格好いい叔父さんだったことだけを強く憶えていた。そんな状況だったが「入院している、そう長くはない」という知らせを聞いて、なんでか「行かなくては」と思った。
入院の原因となった病名は憶えていないが、その人には認知症からの被害的念慮のようなものがあって「自分は医者や看護師に狙われている、これから苦しめられようとしている」と思っていたようだった。かろうじて俺のことは憶えており会話にも支障はなかったが、助けてくれと訴えかけてきたり80歳前後と思えないほどの力で腕を掴まれたりした。
そのときに思ったのは恐いとかそういうことじゃなく、その人の存在についてや人としての生への執着心についてだった。それがそのお見舞いのときに、不思議と近い存在に思えた。
これを書いていて思ったが、祖父と直接話した内容もなんだか曖昧になってきている。母の実家住まいだったので18年間一緒に過ごしていたのに、記憶に残っているのは会話よりもしてもらったことや仕草だったり、そういったことばかり。
なんだか、なにを書けば良いのかだんだんわからなくなってきた。...そう、記憶のメモみたいなもんということでひとつ。
そして、この写真につけた「existence」というタイトルは、東京スカイツリーの存在感の話だけではなかったということを残しておきたかった。