参院選の投開票が行われたこの週、私はまた「信仰」について思いを巡らせていた。

街頭演説やそれに耳を傾ける人々の様子、SNSで交わされる熱のこもった言葉のやりとりを目にするたびに、「○○党信者」といった表現がふと頭をよぎる。政党を信じる、候補者を信じる――それは、私たちが何かを「信仰する」ことと、どこか重なるのではないかと思えた。
「無宗教」だと思っていても、縁日で金魚すくいを楽しんだり、盆踊りの輪に加わったり――もともとは宗教的な儀式だったものが、風習として日常に溶け込んでいる場面は数多くある。特定の宗教を信仰していなくても、そういう「宗教性」*1には、私たちは自然と親しんできた。
こうした「価値観」は、自分で意識的に選び取ってきたように感じながらも、実のところ、その多くは生まれ育った環境や文化的な背景によって育まれてきたのではないか。家族、地域、学校、友人、どんなメディアに触れてきたか――そうした要素が、私たちの「信じるもの」や「大切にしていること」を、いつの間にか育んできた。
ブルデューのいう「ハビトゥス」*2という言葉は、まさにそうした「文化資本や経済資本からなる社会的位置」から身体にしみついた慣習行動のことであり、同時に、他者の慣習行動を『弁別し、分類し、評価する能力』のことを指している。私たちの態度や思考のクセ、価値判断の傾向なども、その多くが「そう育った」ことに端を発しているのかもしれない。
私たちが「信じるもの」や「大切にしていること」は、似た傾向を持つ(=ハビトゥスが近い)人々とのあいだで共鳴し、やがて「集団」や「共同体」として形づくられていく。それは宗教的な信仰に限らず、政治的な立場や支持にもあらわれていると思う。
政策や演説の中でよく取り上げられるのは、『広く認識されつつ拒否されにくいという利点を持つ問題』*3だ。たとえば雇用、賃金、教育、子育て、最近であれば、安全保障、多文化共生といったテーマもそうだと思う。多くの人が不安や不満を抱える領域であり、「なんとかしてほしい」「もっと良くなってほしい」という、切実な願いが潜んでいる。そうした願いも、集団として束ねることができるだろう。
その集団をターゲットにして、「私たちはわかっている」「声を届けよう」と呼びかけるプロパガンダは、しっかりとした解決策を伴わなくても、一定の支持や共感を集めることがある。実際に救われるかどうかよりも、まずは「ないがしろにされていない」という感覚だけでも、心が満たされることもあるのかもしれない。
「私が信じているもの」がどのように育まれてきたにせよ、自分の信じているものは、自分で検証していけるはずだ。本当ならば、親元を離れて自分自身の暮らしを立ち上げるタイミングで、時間をかけてそれを問う機会があれば理想的だったと思う。でも多くの場合、日々の営みに埋もれていくか、そもそもその必要性に気づいてすらいない。
「信じていること」は、ふとした瞬間に姿を見せる。なにげない選択や、他者との距離の取り方、怒りや悲しみの根っこに。
ハビトゥスは、変わらないものではない。日々の出会い、経験、問い直しのなかで、少しずつ組み替えられていくものでもある。だから、「私が何を信じているのか」「これから何を信じていきたいのか」を、自分自身の言葉で確かめること。それは今からでも、いつからでも、始めることができる。問い続けることそのものが、「信仰」という営みのかたちなのかもしれない。
2025W29
2025W29 (2025-07-14 / 2025-07-20)
今週のうたかた
14日 月曜日(2025-195)


15日 火曜日(2025-196)





16日 水曜日(2025-197)




17日 木曜日(2025-198)

18日 金曜日(2025-199)




19日 土曜日(2025-200)
エクストラのお仕事@市川塩浜。あとの予定のため、リュックサックにカメラを忍ばせて向かう。この案件は鍵のかかるロッカーが利用できるので、安心。
夢の島熱帯植物館、夜間開館






そういえば、ドームから外に出られるこのスペースは、夜間開館しか出たことがない気がする。



20日 日曜日(2025-201)
エクストラのお仕事@市川塩浜。少し迷ったが、この日もカメラをリュックサックに忍ばせて仕事へ。





市川塩浜周辺の景色はこんな感じ。
市川塩浜駅の近くにラウンドアバウトがあったので観に行った。初めてこの案件に入ったときにも「ショートカットする道順」として案内されてここを通ったはずなんだけど、見落としていた。
鶯谷駅に戻ってきて、買い出しのために妻と合流しに向かう。



