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2025-182 上半期を振り返る

 2025年7月1日、火曜日。晴れ。七十二候の半夏生*1*2

 ラジオ・ポッドキャストは『伊集院光深夜の馬鹿力』『ダレハナ』『岸政彦の20分休み*3』『シティローストと建仁寺』『上坂あゆ美の「私より先に丁寧に暮らすな」』『Session』『アトロク2』を聞いて過ごした。

 昼はモリバコーヒーへ。雨雲レーダーの通知があったので傘を持ち出したけど、四谷のあたりは降らなかった。レベッカ・ソルニット『ウォークス 歩くことの精神史』はまだ読み終わっていないけど、「気になった文章を書き出すだけ」の読書メモ術を試してみる。書き出した後でGoogle Keepかブクログかに打ち込んで、ChatGPTに読ませてかみ砕いてもらって、それが私にとってどういう要素なのかを考える、というのが最近の流れ。書き出した後に直で感想書ける場合ももちろんあるけど、より深く考えたい場合はChatGPTが役に立ってくれる。

 買い出しして帰宅。雑談や家事など諸々して、自由な時間が少しだけできるがもう眠い。

 今週のお題「上半期ふりかえり2025」。これまでになく日記と週報をしっかり書いた上半期だった気がする。1月はちょっとペースが掴めなかったけど、「この感じなら続く」というのがわかってからは楽になった。このまま続けば年間200記事は超えるのかも。
 以下にこれまでの記事から自分の印象に残っているものをピックアップして引用していく。読んでいるだけで結構な時間を使ってしまった。思考、思想、信仰、そこからの言葉や写真……というあたりが私のテーマのような気がしてきている。

  • 行動指針 2025年 - はせる
    • タイトルを「行動指針」に変えたのは、結構ファインプレーだったのでは、と思っている。
  • 2025-030 灯台 - はせる
    • 言語化という行為については、言語化しなくてもなんともない人と、言語化することでなにか楽になったり、要るもの要らないものを選り分けられるようになるからしたいという人がいると思っていて、つまり誰も彼もがしなきゃならないものではないでしょ、と思っている。

  • 2025-050 行動原理 - はせる
    • 「リュックサックや斜めがけバッグのストラップがねじれている」ということから、その人の別な所作や行動のことまでを推論しているということである。

    • 結局まだ『ブルデュー『ディスタンクシオン』講義』のまとめはしていない……
  • 2025-064 啓蟄 - はせる
    •  再び「信仰・信仰心」についても考えるような時間になった。奴隷のように死んでしまうことはなくなっても、苦しみはかたちを変えて現代にもあるわけで、そうすると結局「救ってくれるもの」を求めることになってしまう。それはやっぱり「神」であり、信仰的な面では「どう生きればいいか」を示してくれる存在であったり、資本主義的な面では「お金」や「資産」であったりするんだろう。「超人」の生き方というのは「自分の中に神のような存在を造り上げること」と捉えられなくもない。YAZAWAとかリトル本田みたいなことか。

    • この理解って結構芯を捉えていないか、と思う。
  • 花鳥風月 (2025W12) - はせる
    •  私にとって「写真を撮ること」は、自分の内面と対話する「創作」であり、自分の身の回りを認識する「視覚」でもある。写真は「内面のメタファー」を写し込むことができるけれども、基本として「外を向いてする行為」だと思う。だから、花鳥風月や季節を気にしながら写真を撮ることが、外へ関心を向ける力になっていく。これは、写真を撮ることが内へ向かう意識をエネルギーにして、外へ向く力に変換していると考えてもいいのかもしれない。

  • 取り繕う (2025W14) - はせる
    •  自分で作ってきた場所も、自分で壊してしまうことだってあり得る。自分の怠惰な部分が「取り繕う」という選択肢が必要な状況を作り、それを選択することをも許してしまっている。これは私が長年抱えている問題点である。「取り繕う」のではなく「律する」ことができるようになりたいと思いながら、結局は自分に甘えている。

       季節の変わり目、気温の上下、年度の切り替わり、新しい人間関係、新しい立場。メンタルの不調から、このことに考えが至ることがある。私は弱い。弱いことは認めるしかない。でも弱いことさえも赦し、なんとか取り繕って生きている。そのことには自信がある。

  • 創作っていいな (2025W15) - はせる
    •  長くやっているとスランプのような期間に陥ることがある。長くやっていくならば尚更、時々変化や刺激を加えることが大切だと思う。共作というのも、刺激のひとつだなと思った。

  • 余白を取り戻す (2025W17) - はせる
    •  「退屈」は時間の「穴」ではなく、「余白」だと考える。余白は思考を呼び起こす。それならば、意図的に「退屈」を味わうことで、自分の内側から浮かび上がる感情や欲求に気づくことができるかもしれない。

  • 42まで積み重なった (2025W18) - はせる
    •  そのときの自分が、なにを見て、なにを思い、なにを感じていたのか。そういう感情の風景を、言葉や写真という手段で記録し、少しずつ積み重ねている。特に写真は、見返すたびに思い起こされる感情もあって、こうやって誕生日を基準に振り返ることは「感情の定点観測」だと考えても面白いかもしれない。

    • 前にやっていた「阿佐ヶ谷定点観測*4」という写真シリーズを鶯谷近辺でもリブートしたいんだわ。
  • 2025-132 そういう「いい子」 - はせる
    •  片親であることに不満を持たなかった、不満を持たないようにしてくれていた、そのおかげなんだろうと思う。だから、なぜ片親なのか、あまり詳しく聞こうとしなかった、興味を持たなかった。でもそれは、そういう「いい子」だったといふうにも言えるのかもしれない。

    • 自分が片親であることを42歳になってこんなに考えるとは思っていなかった。
  • 2025-142 絵画は瞑想 - はせる
    • 行動指針の関連記事。国立西洋美術館の企画展『西洋絵画、どこから見るか?』へ。
  • 見るを知る (2025W21) - はせる
    • 展示会場は「正解を当てる場所」ではないし、ましてや「正解の想像」もない。ただ、「一面」だけで捉えずに、目の前にあるものが「多面的」「多層的」であることを想像してみること。それが、どんな展示でも必要な姿勢なのだと思う。そして、「多面的」「多層的」に想像するために、その対象について知ろうとすることも当然のことだろう。私はようやく「見ること」の入口に立てたのかもしれない。

    • 美術展、あんまり緊張して行く必要はないけど、より楽しみたいなら下調べはしていくべき。そんな当たり前のことをようやく認識した。
  • 公開する責任 (2025W23) - はせる
    •  発表せずに誰の目にも触れることがない創作物に、責任は発生しない。なにを描いても、なにを書いても、誰の感想も、誰の批評も受けることはない。でも「公開する」と決めた瞬間から、それは他者の目にさらされるものと考えなくてはならない。「誰かが見る、読む」可能性があることを意識すると、自然と自分のアウトプットを客観視するようになって、「他者の視点」を想像する力が鍛えられていく。

  • 言葉になるまで (2025W24) - はせる
    •  「書く」と「話す」は大きく違う。「書く」ときは言葉を選ぶ。文脈を整え、誤解のないように配慮しながら、「伝わる言葉」を探していく。一方で、「話す」ときは、まだ形になっていない思考が声になってこぼれてくることがある。話しているうちに、自分が本当はなにをどう感じていたのかに気づかされることもある。

  • 都市風景と感傷 (2025W25) - はせる
    •  都市風景は「私」だけのものではない。街の写真は、ただ風景の記録としてではなく、そこにいた「私」や「誰か」の記憶をも写し込んでいる。都市とは、無数の記憶が折り重なる場所なのだろう。知らない誰かの記憶も、私が写し撮った都市風景の中にそっと紛れ込んでいる。個人的な意図で作られたアート作品が誰かの心を打つように、私が写し撮った都市風景も「そこにいたあなた」の記憶を呼び起こすこともあるかもしれない。名前も知らない誰かの記憶が、ふとした拍子に自分の記憶と交差している。都市とは、そういう「誰かの残像」が創り上げているのかもしれない。

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