そういえば、東日本大震災の当日も金曜日だったな……とふと思って(2016年以来2回目)、そしたら当日の記憶がいくつか浮かんできた。そういえばこんな経験したよなと思ったり、私はこのぐらいの経験で済んだんだと思ったり、もっとずっと大変な思いをした人がいることを知っているんだと思ったり。
なんとなく、思い出したことをちゃんと文章に書き起こして残しておこうと思って、今タイピングしている。
2011年3月11日、金曜日、14時46分。当時はまだ転職前で、後輩と一緒に溝の口駅(神奈川県川崎市)の近くにある客先で打合せ中に震災に襲われた。地震が収まった後に客先の社員さんらと屋外へ退避して、暫く状況を見てから会議室に戻ると、大きめの余震に襲われた。担当者さんと少し話して打合せは中止、気をつけて帰ってくださいね、で解散となった。
客先を出たのがたぶん16時過ぎぐらい。携帯電話も繋がりづらくなっていて、会社の先輩になんとか電話を繋いで直帰でいいだろう、と許しを得るも、当然電車はすべてストップしていた。駅前繁華街のゲームセンターで少し時間を潰してみるも、電車の再開は見込めず、タクシープールを見るとタクシーがいないにも関わらず長蛇の列だったので、徒歩で進みつつ、他のお客さんが降車中のタクシーなどを途中で捕まえる方針に変更した。
私は当時杉並区在住、後輩は足立区方面だったので、この日は距離の近い私の家に泊めることにして徒歩を開始。二子橋を渡り、環八通りに合流して北上する。結構な寒さに早々にくじけそうになり、途中にあったマクドナルド(用賀インター店)に入る(到着時間が定かではないけど、調べると溝の口駅から徒歩で1時間ぐらいなので、18~19時ぐらいだったと思われる)。食事を注文するつもりでいたけど、キッチンはガスの都合かなにかでストップしていて、同じく帰宅困難者と思われるお客さんたちと一緒にただただ時間を潰し、このまま翌朝を迎えるだろう、と思っていた。
その間、青森の実家にはメールで連絡が付いたり、仙台在住の友人もTwitterで安全が確認できたり、少しずつ元気になっていった。
日付が変わってすぐに、お店を閉めることが突然アナウンスされた(お店としては機能していなかったし、従業員への配慮等の状況判断かな……と今は思う)。渋々マクドナルドを後にして、すぐそこに電話ボックスがあったので、携帯電話よりは繋がりやすいだろう、とタクシー会社に電話をかけるも、配車できないと断られた。
仕方なく徒歩で環八通りの北上を再開すると、それほど歩かないうちに大きな公園(今確認すると砧公園だった)に差し掛かり、その横で運良く空車のタクシーに恵まれ、ようやく帰宅することができた。
自宅ではグラスが1個落ちて割れていた程度。片付けて、買い溜めしていたどん兵衛を後輩と一緒に食べて就寝。
翌日土曜日は休んで、打合せの資料を持ったままでいるのが嫌だったので日曜日は自転車で出社した記憶がある。このあたりはもう曖昧。
その後、2011年4月2日に、こんなことをTwitterに残していた。震災直後とコロナ禍の今とはまた状況が違うけど、「なにもかも込みで日常」というのは変わらないと思う。
カメラ持って、音楽聴いて、目的地もなく、無理に撮りもせず、ひとり新宿を歩いている。すれ違い追い抜いていく人を見て、どこか幸せを感じ、どこかせつなくも感じる。ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず…とか考える。日常が変わったわけではなく、なにもかも込みで日常なんだよね。
— YAMAMOTO Daisuke (@ymmtdisk) 2011年4月2日
そしてそのとき撮っていた写真がこれ。新宿駅南口付近。数十秒ぐらいの長時間露光が好きだったことを思い出すなど。