一眼レフを再び持ち歩くようになったので、今週は写真が多めになった。このまま続くといいと思う。
写真が多くなると、それに比例して書くことも多くなる。「写真にキャプションつけなきゃなぁ」という使命感もあるけれども、撮った写真を見ながら文章を入力することで、そのときの状況や感じたことなどが色濃く思い起こされるからでもあると思う。このことから、写真を撮ることが「言語化の先送り」をしているということのような気がしてきて、芋づる式に以前読んだ本のことも思い出した。
「なにも感じていない」のではなく、「感じていることはあるのに、解像度が低すぎて自分でもわかっていない」だけ
荒木俊哉『瞬時に「言語化できる人」が、うまくいく。』
「解像度」という言葉はもともと写真関連の用語で、レンズやフィルムがどの程度細部まで写し撮れるか、写し出せるかという度合いであり、引用で使われている「解像度が低い」というのは「あいまいで、不確か*1」と表現することもできる。
私が写真を撮るときには、対象を見て「撮ったらいい感じになりそう」とか「撮っておいたほうがいいかも」「撮っていいかな」「撮るか」ということは考えていても、情操的な部分や画角の中で起きていることについて感覚的に捉えていることを、その場で具体的に「あれやこれや」と言葉で捉えようとしていない。そのときに感じていたいろいろなことは、「カメラを構える、構図を吟味する、シャッターを押す」という動作を終えると、どこかに行ってしまっているような気がしていた。
でも、撮った写真を週報やGoogleフォトで見直すことで、その写真を撮ったときの「あれやこれや」も、そこから連想される「それやどれや」も含めて、いろいろと再び浮かんでくる。どこかに行ってしまったと思っていたそれらは、もしかすると写真の中にあるということなのかもしれない。「写真を見直す」という行為によって、そういう「あいまいで、不確か」だった感覚を、あとから言語化していると考えることができそうだ(写真的に言い直すと「感覚を言語に焼き付けている」ということ)。これまで撮った写真を遡れるだけ遡って眺めるということはずっとしているので、私はそういう言語化が好きなんだろう……好きなんだ……好きです。
*1:宮田愛萌『あやふやで、不確かな』