ディストピアは必ずしも荒廃した見た目ではなく、エヴリウェアである。
ディストピア的な世界観の映画がなんとなく好きで、気になったものは(レビューも参考にして)見ている。『リベリオン』『華氏451』『ソイレント・グリーン*1』『イーオン・フラックス』『Vフォー・ヴェンデッタ』とか。ただ、なぜ好きなのか、ということはこれまで言語化できずにいた。
最近、図書館で借りた『文藝 2021年春季号』を読んだ。特集が「夢のディストピア」だったから手に取ったもので、「ディストピア小説の主人公とは誰か 嫌視点の作り方」と題された飛浩隆さんと高山羽根子さんの対談が掲載されている。その中で、高山羽根子さんが以下のように語っている。
ディストピアとは、最終的にはユートピアと表裏一体とはよく言われると思うのですが、そうではなくて、わたしはディストピアというのはどこに視点を置くか、という話だと思うんです。先ほど全体主義という言葉が出ましたが、たくさんの人が社会で生きていくために、ひとつの方向を向いている方が生きやすいという見方がありますよね。でも、そのときに違う方向を向いてしまった人の物語がディストピアなんです。なので、作り手の立場としては、ディストピア文学は視点の物語という意識があります。 文藝 2021年春季号
特集 夢のディストピア
対談 飛浩隆 × 高山羽根子「ディストピア小説の主人公とは誰か 嫌視点の作り方」
この対談を読んで、私自身が「ディストピア小説の主人公」的な立ち位置にいることが、たまにある気がしてきた。たぶんそういうところから、ディストピア的な視点に共感とか共鳴のような感覚を受けているのかもしれない。
最近の関心事のひとつとして、集団(群衆)の心理について本を読んでいた。漠然とした集団に対する意識が整理されていく。私は、個人または集団として他集団から暴力や迷惑を被ることが不快であるということがまずあり、また、自分がなにかしらの集団に埋没してしまうことを恐れて抗おうと考えているようだった。身近な集団の行動や思想に違和感をおぼえて、距離をとって様子を伺っている状態。こちらの意見を、説得ではなく矯正のようなやり方で従わせようとする議論など*2は大嫌いなので。
集団は集団の塊であり、もっと細かく見れば集団は個の集合ということになる。1つの集団と考えてしまうと、ある問題に対する絶対的に正しい解決策なんて実はなくて、集団は個の集合であると考えて、「命は大切に」とか「家族は大切に」とか、そういった根源的なことを共有しながら、お互いちょうどよい距離を保って、違う解決策を用いながら同じ目標へ向かうことが有効なような気がする。
ああ、そうか。なんか飛躍する気もするけど、私は私が所属する集団の数を必要最小限にして、できるだけ最小単位の集団でいたいんだ。自分の手で守れる範囲の集団。それはきっと「家族」だろうね。同じ価値観の他集団とは情報を共有したり、行動を共にすることができる。なんかしっくりくる。これが言語化できたのは大きい気がする。
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