コミュニケーション。
『毎日かあさん』は図書館で借りて読んでいて、子育ての中で感じる楽しさ、愛しさ、驚き、怒り、そして呆れが上手く描かれていて好きなんだけど、西原家の息子の年齢がうちの息子の年齢を追い越して先に行ってしまったので、4巻までで一旦止めていた。
というところでの、娘さんのブログである。実際の親子関係がどうであったかはわからないのだから、どれをどこまで信じるかというのはあるけど、やっぱりあの調子で思春期の様子まで描かれたら*1、少なくとも嫌な思いをすることはあるかもしれないな、と思う*2。ブログとかネットの記事を読むと、漫画の内容というよりも純粋に母親と娘の関係性に問題があったような印象も出てくるんだけど。
自分事の方に持ってくると、創作物と他者との関係はずいぶんと前から考えている。自分の写真の傾向としてストリートフォトが多いので、写真を撮るときに肖像権のことを考え始めたのが始まり*3だったと思う。近い時期、写真友達にパートナーとのとてもプライベートな時間の写真を撮ってFlickrに公開する人がいて、正直うらやましいなとも思ったけど、ちょっと引いた目線で自分だったらそれができるか、とも考えた(出した結論は「きっと無理!」だった)。
2018年頃、資生堂の花椿で連載されていたはるな檸檬著『ダルちゃん』でのダルちゃんとヒロセさん、文月悠光著『臆病な詩人、街へ出る。』というエッセイ集に収録されるチョーヒカルさんとのやりとりなど、同時期に「他者との関係」からインスピレーションを得て創作することについて触れた内容に出会った。(しかも、どちらも創作物は詩なのだった)
私の場合は写真だけど、どうも『創作優先になっても仕方ない』とは思えなくて、撮ることができずにいたり、よしんば*4撮ったとしてもどこにも公開することができないままでいたりする。『創作優先』っていうのはつまり「自分が撮りたい写真」のみを突き詰めているということで、被写体に断りも入れず、本人がどう写りたいか、どう写りたくないかということを蔑ろにしてしまうこと、だと考えた。
だからといって、この趣味を諦めるようなことも考えられない。コミュニケーションによって相手とのちょうどいい距離感を模索したり、相手側への影響がないところで楽しむ。
このブログも「日記」という形態である以上、妻や息子のことに触れないということはまず無理なんだけど、家族だけど妻や息子も他者のうちなので、まず相手に伝えていない感情は書かないようにしている。写真でははっきりと顔が写っているものは使用しないようにしていたり、文章ではアイデンティティに関わる内容はぼかすか触れないなど、プライバシーへの配慮もしているつもりではいる。結婚前は結構オープンに書くこともあったけど、今は書かない選択をしている部分がまあまあある。
創作と他者のバランスを保つには、コミュニケーションを取るしかない。それが面倒なときは、他者のいない方に行くしかない。
*1:娘高校2年生で卒母宣言、連載終了とのこと。ソースはWikipedia
*2:あと、Wikipediaには『周囲の母親たちからもたらされた複数の子どもの話を元にしたフィクションであったことを明かしている』ともある
*3:「訴えられたら怖いな……」ぐらいからのスタート
*4:好きな副詞。「かりに」「たとえ」