はせる

は・せる、馳せる

楽しきカメラ人生

 田中長徳さんのブログを良く読んでいるんだけど、今回は写真撮影について示唆的な感じであったので引用しながら書いてみる。

chotoku.cocolog-nifty.com

写真教育というのはいかに先生が熱心でも教わるほうの才能がないと最初からダメと言うことだ。

 撮りたい写真を撮るために、いやむしろ自分が撮りたい写真を理解するためにも、観察や推察して技術を盗む才能が必要なんじゃないかとこの記事を読んで思った。

 カメラの操作方法とか絞りの仕組みとかは習うとしても、その場その場での写真の撮り方・構図の取り方とか「今シャッターを切る」って感覚は教わって身につくものじゃない。盗んでやってみて自分なりにアレンジしていくと良いんじゃないか、と。審美眼も人から教わるものではなく自分で養うものだよね。

 他の人の写真を見ることは、自分の写真に対する感覚を調整するために必要なことだ。少なくとも僕には。

職業人よりも趣味人の方がその物事の本質にかけていると言うのは、これは1種の神話であるのだが例えばウイーンの専門職、大学の先生とか医者がバイオリンを持たせるとウィーン・フィルハーモニーの第一バイオリンよりうまかったりする。
これがアートの本質に肉薄していると思う。写真に帰って言えば日本の場合は結構情けない次第で新型カメラのテストで満足してその先の表現まで行かないのだ。

 趣味人も結局は新型カメラの自主テストをしていることもあるので、どっちも変わらない部分もあるんじゃないかと思うけど、カメラの性能がどう、レンズの性能がどうとかよりも、写真の話をしようぜ。というのは常々頭の中にある。レンズや本体を取っ替え引っ替えしている人を見ると特に。

 昔から、写真は生業にできないと思っていて、自分が撮った写真をお金に換えることへの違和感があった。もともと自己満足で撮っていた写真なので値段を付けることをしたくなかったというのが理由なのかもしれない。カメラ付き携帯が普通になって、一眼レフも一般化してスマホも普及して、誰もが写真を撮る時代になって、写真でお金を頂戴するってことのハードルがとても高くなった(感じがする)こともある。

 もちろんプロカメラマンの技術や知識にはそれ相応の価値があると思っているよ。大丈夫、そこは。

 長徳さんのブログは本当に随筆みたいなもので必ずしもカメラのことばかりではなく、それでもカメラ人生が滲み出ている感じがする。ちょうど今、御茶ノ水のギャラリーバウハウスで長徳さんの写真展開催中です。来週拝見しに行きます。

屋根裏プラハ

屋根裏プラハ

閑話休題

 結局は昔書いた写真についての内容を、毎回毎回反芻しているような内容になる。機材よりも写真、生業にはできない。とか。

 そういえば最近Flickrに投稿するときにタイトルを捻り出すのをやめた。そのおかげで肩の力が抜けたような気がする。タイトルを付けるべき写真は、たぶん、撮影したときに既にタイトルが決まっていると思う。

IMG_2756.jpg

 やっぱり駅のホームは大好きだ。ただ、この写真については屈んで撮るべきだったと思う。

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